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【社員インタビュー#2 田中パトリッシャルイーズダイリットさん】
2022/08/26
田中ルイーズ

田中パトリッシャルイーズダイリットさんはとても明るく、朗らかな方でした。職場の事を嬉しそうに話す姿が印象的で、現在の生活が充実している事を感じ取る事ができました。しかし話を進めるうちに、その充実を手にするまでに大きな苦労や葛藤があった過去も知りました。

 −まずはポリグロットリンクへ入社した経緯から教えてください。


元々、自分が話せる言語を使って人の役に立つ仕事をしたいと小さい時から思っていました。それである日、大学で知り合ったベトナム語のお友達からポリグロットリンクが多言語人材を募集していると聞いて、小さい時からやりたいと思っていたことが実現できそうだったので入社しました。
面接をして、もう翌日には働くことになったので、パパパン!というような感じで決まりました。この会社ってどういう会社なんだろう?と思う間もないくらい、スムーズに働き始めちゃいました(笑)。


 −(笑)それが昨年(2021年)の12月ですね。入社して約半年が経ちましたが職場の雰囲気はいかがですか?


凄く良いですね。オペレーターは歳も近いですし、全員と仲良くしていますよ。仕事終わりに飲みに行ったり、お昼ご飯も一緒に食べたりしています。この間はセンター長のロブさんのお誕生日祝いまでしました。みんなで食べられるようにケーキを3種類買って、事務所の人全員でお祝いしました。暑い日にみんなの仕事が捗るようにピノのアイスをみんなに配ったりもしてますよ。


 −凄く明るい環境なのが伝わってきますよ。


仕事している間も良い意味で、遊んでいるような感覚なんです。場を和ませてくれる人達が多いので、翻訳が行き詰まっている時でも、できるぞという気持ちにさせてくれます。


 −田中さんの明るさが職場と合っていたんじゃないかなと思いますね。やっぱり子供の頃から明るい子でしたか?


そうでしたね。家族の中で初めての子供だったので、祖父に可愛がられて育ったのが大きいです。フィリピンにいた頃は体型もちょっとポッチャリだったので、まさにオモチャ扱いみたいな(笑)。それが嬉しかったんでしょうね。”踊って”と言われたら踊り出す、”歌って”と言われたら歌い出す、みんなのムードメーカーでした。


 −では日本に来てもすぐに馴染めたんじゃないですか?

それが、実はそんな事なかったんです。日本での生活は、ずーっと、とても苦しいな、と思っていました。言語も分からないし、何より日本とフィリピンって文化の違いが、すご〜くあるんですよ。


 −どんな違いを感じましたか?


日本って、なんて自由がないところなんだろうと私は、実は今でも思っています。例えば、日本では薬局に来て、「これ、いいかなあ?」とか隣にいる人に聞く事ってないですよね。フィリピンでは、他人にすぐ話しかけて友達になっちゃうような文化なんです。フレンドリーさが全く違うな、と思います。


 −確かに日本人にはそういう気さくさはないかもしれませんね。生活面ではどんな違いを感じましたか?


やはり時間がすごく詳細に決められていることが窮屈だなって思います。フィリピンはバスに時刻表がないですし、電車は遅れて当たり前なので(笑)。フィリピンではそんな生活をしていて、それで日本に来たら、なんて時間に厳しい社会なんだろう、と思っちゃいましたね。フィリピンでは、テレビの生放送では事故が起きることが当たり前ですし、逆にネタにして話題になったりするんです。それくらい、とってもおおらかな国だから、突然、窮屈な国に来ちゃったみたいな感覚ですよ(笑)。


 −日本での生活を始めた頃、率直に、どんな事を思っていましたか?


なんでこんな生活しなきゃいけないんだ、と当時は思っていましたね。小学生の頃に、日本語ができない事で、いじめられたりもしていましたからね。毎日のように父や母にフィリピンに帰りたいって言っていました。


順風満帆ではなかった日本での生活を、田中さんは包み隠さず話してくれました。それは日本での苦労や葛藤を乗り越えたからこそ、できる話だと思いました。そして、辛い経験をしたからこそお客様に寄り添える、現在の仕事へと繋がる話を聞く事ができました。


 −正直、今の姿からは想像できませんね。差し支えなければ、これまでの話も聞いて良いですか?


もちろん、いいですよ。


 −ありがとうございます。では、生い立ちから教えいただけますか。生まれはフィリピンですか?


はい、フィリピンのマニラ出身です。マニラは、6歳まで父・母・母の妹・母方の祖父・母のいとこと一緒に一軒家に7人ぐらいで住んでいました。日本でいうと東京のようなところで、賑やかな街だったということを憶えています。


 −フィリピンではどんな生活でしたか?印象に残っている風景がありましたら教えてもらいたいです。


私は一人っ子だったので、朝は学校に行って、帰宅後、お昼寝をしたり、テラスから通りがかる人々を見たり、小さなプールで遊んだり。ベランダで、父や母がお酒を飲んでいる傍ら、学校の宿題の絵を描いたりしてました。その家には、家族との思い出が詰まっていました。
学校が家から歩いて3分程度のところなんですがメイドさんに学校への送り迎えをしてもらった事も憶えています。


 −メイドさんが家にいたんですか?


驚きますよね(笑)。日本ではあまりないですが、メイドさんってフィリピンでは当たり前のような存在なんです。そのメイドは、祖母が母を産んだ時からの付き合いだったりして4〜5年の仲ではなく、20年〜30年と仲が良かったりします。ちなみに祖母も日本へメイドとして出稼ぎで働きに行っていました。


 −そうなんですね。日本に来られたのは何歳の時ですか?御家族の仕事の関係ですか?


6歳の時です。家族でやっていた仕事がうまくいかなくなったのが、フィリピンから日本に移るきっかけですね。元々日本で働いた経験のある祖母から、日本のほうが良い暮らしができるんじゃないか、と提案されて家族で日本に来る事になりました。色々あって、父はフィリピンに残り、結果として、両親が離婚してしまいました。先に母の妹が日本に来て、母と母のいとこが日本に来て、というように家族全員で順々に日本に移住する形になりました。


 −そこから日本の学校に通われたんですね?


そうです。小中高大、東京の学校を卒業しました。最初はとても苦労しましたね。


 −やはり言葉の違いですか?


はい。日本に来た時は全く日本語が喋れず、『おはようございます』『さようなら』レベルの日本語しか扱えませんでした。それでも、日本人と一緒に生活した方が日本語を覚えられるんじゃないかという事で、小学校二年生から飛び込むように日本の学校に入学しました。
入学するまでに校長先生が家族と話し合ってくれたんです。そこで『1年間、日本語学校で日本語を学ぶか』『みんなと授業が終わってから7時間目を作って、日本語を学ぶか』という選択肢を提案してくれました。何度も話し合って、1年間日本語学校で過ごすのは時間がもったいないんじゃないか、という事で、7時間目に日本語の勉強をすることになりました。


 −少しずつ日本語を話せるようになった事で変わった事はありますか?


やっと日本語覚えた頃、母は日本語を喋れないから、母の付き添いで市役所で母の通訳をしていましたね。


 −もう今の仕事に繋がる事をやられていたんですね。


確かにそうですね。今まで気が付きませんでした(笑)。


 −当たり前の事、としてやられていたのですね?


そんな感じですね。子供の頃から、お爺ちゃんやお婆ちゃんなどの助けを必要とする人を見ると、なんとかしてあげなくちゃ、と思うタイプだったんです。7歳の誕生日の時、将来何をしたいの?って聞かれて私は、フィリピンのホームレス達を助けたい、と答えていたそうです(笑)。 
日本に来てからも、母や私達と同じ国籍で、言葉が通じなくて困っている人がいる姿をよく見ていたんですよ。その姿が凄く印象に残っていて、それは今の仕事にも影響しているかもしれませんね。
少しずつ日本語が話せるようになると、少しずつ日本の事も知ってくるじゃないですか。そうすると、日本語が話せない外国人が日本で、何で困っているのかが分かるようにもなってくるんです。


 −それは言語ではなく文化の違いという事ですか?


そうです!言葉が通じても、話が通じない事があるんですよね。


 −何か具体的なエピソードとかってありますか?


例えば、日本ではすぐに病院に行く予定がなかったとしても、国民保険か社会保険のどっちかに加入するのが当たり前じゃないですか? でもそれって外国人にとっては当たり前じゃないんですよ。日本の制度が分からないから、困ってしまうんです。
それは今の仕事でも時々ありますね。納得してくれないお客様がいる時は説明だけで1時間半ぐらいはかかってしまうのが大変です。
国や文化が違う事って、本当に大変な事なんですよね。


田中さんはとても優しい方でした。話を聞けば聞くほどに、その印象は濃くなりました。そして、当たり前のように人に優しくする事や困っている人がいたら助ける為には、自身の強さが必要なんだ、と教えてくれました。

自分らしさと向き合い続け・自分のスタイル貫き通したからこそ、現在の充実した生活を手に入れた田中さんとの話は、とても有意義なものでした。これから一緒に働く人達だけでなく、これから日本での生活を始める外国人の方達にとっても、希望と勇気を与えてくれる話を聞く事ができました。


 −お話を聞かせてもらっていて思ったのですが、現在やられている仕事は、田中さんにとても合っているんじゃないですか?


自分でもそう思います(笑)。今日も人を助けることができたな〜、今日も同じ辛い思いをしている人達を助けることができて良かったな、って、そんな事を毎日思って仕事をしています。だから、この仕事に出会えて本当に良かったです。


 −遣り甲斐を感じるのはどんな時ですか?


やはり私が入社したのはコロナ渦なので、それに関わる対応が印象に残っていますね。日本人と同じように、給付金が本当に必要な日本に住む外国人がいるんですよ。給付金を必要とされているのに、今の自分の状況を日本語で説明するのが難しいお客様の対応は大変でしたね。それでも、私の通訳で役所のスタッフに理解してもらい、申請用紙を書き終わったお客様に「あなたのおかげで助かった」と言われた時が、一番やりがいを感じましたね。


 −家族の為にやっていた事が、今ではそれが仕事になっているんですね。


そうなんです(笑)。


 −経験したからこそ分かる部分って凄く重要ですよね?


本当にそう思います。もらえる資格があるのに日本語が分からないと、市役所に行っても、申請もできないし、申請に必要なものも分からないんです。そこに通訳がいれば、給付金がもらえる、さらに家賃を滞納している場合、家賃補助が追加で受けることができたりするんです。「あなたがいなかったら、来月の暮らしはどうなっていたのかわからない」と言われたりもします。それがお客様にとっての希望になったりもするんです。それまで1時間半ぐらいかけて、通訳をしていた中、やっぱり疲れたりもするのですが、その言葉を聞くと、その疲れはどこかにいってしまうぐらい本当に嬉しいです。

 −日本で働いてみて、自身が変わったと思う所はありますか?


変わったと言うより、強くなりましたね。母が日本人と再婚し自分の苗字が田中でも、どんなに日本語が上手になって、相手に言葉が伝わったとしても、私は日本人の一員にはなれないと思っている所があるんです。でも、それを悪い事だと思わないようになれましたね。


 −自分は自分だ、と言う感じですか?


まさに、そうですね!自分のスタイルは絶対に変えない、って少しずつ思えるようになれました。
日本って自分の意見やスタイルを主張すると白い目で見られてしまう事が多いじゃないですか?今になって思い返すと、そこが苦痛だったんですよね。だからこそ、自分が素でいられる場所を求めて、大学もインターナショナルスクールに通う事にしました。日本の企業に入る事や日本人の人達と働く事にも、実は少し抵抗があったんです。だからインターンシップにも行きませんでした。
それでも巡り巡って、自分のスタイルを曲げなかったから、今の仕事に出会えたんだと思います。


 −では率直に、今はどうですか?


今は幸せです。日本に来たばかりの時は、とても辛い思いをしていたので、昔の自分に、「今は幸せなんだよ」って言っても信じてくれない、と思います(笑)。 あの時、フィリピンに帰らなくて良かったと思います。もし帰っていたとしたら、後悔していたと思うので。


 −その言葉を聞けて本当に良かったです。私まで嬉しくなりました。
では今後の目標やキャリアプランなど教えてもらっても良いですか?


コロナが落ち着いたらフィリピンに一度帰国して、自分のビジネスをやってみたいですね。すに、家族で経営している日本の物産を取り扱うジャパニーズストアがマニラにあるので、別の場所にも、もう一店舗出したい、と思っています。日本での経験が絶対に活きると信じています。


 −最後に求職者へのメッセージをお伝えください


異なる言語を使用する仲間と、一緒にコミュニケーションに困っている人たちの手助けをしてみませんか?

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